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言葉を封印したら、伝えたいことが溢れてきた

完治したから言えることではありますが まったく声が出なくなった時期が、最近あって。 ファイバースコープを鼻から入れて検査したのですが 声帯はほとんど傷ついておらず。 細菌が肺や気管支(喉の奥)を侵して 膿がでて喉を塞いでしまった、と。 声を出してはだめ! 誰ともしゃべっちゃダメ!! という数日を過ごしまして 安静にしているしかなく 何も手につかず 考えはまとまらず色んな思いがよぎりました。 その時も、 それ以降も、 またこんなに風になったら今後どう生きようか、とか 健康なのは当たり前じゃない、自分にもしものことがあったら誰に何を伝えたいだろうか、とか そういうことに想いを馳せることが多くなりました。 いま生きている、ということに ちゃんと向き合わないとな。 悩んだり焦ったり躊躇したりしていることもあるけど その全部を抱えながらも、 とにかく今を大事に丁寧に過ごして、ちょっとでも前に進みたいなと。 言葉が封印された分、伝えたい想いがふつふつ湧いてきたので これから少しずつ、綴っていこうと思います。

自分の人生、どう”おひらき”したいかな

披露宴で司会をする時 ラストシーンを「終わり」とは言わず 「おひらき」とか「むすび」とか言います。 最近の関心事は 「自分の人生、どう”おひらき”したいのか?」 ということ。 いまのところ 人生設計に【結婚】が入っていないので そうすると いわゆる『おひとりさま』ということになるわけで 私にもしものことがあった時、誰にどのように連絡をしてもらいたいか ? 銀行口座とか、携帯代など引き落とされているものをどうするのか? みたいな事務的なことから 誰にどのようなメッセージを残したいか? 伝えるそびれていることはないか? などの、いわゆる「気持ちの問題」みたいなことまで いろいろと気になっています。 どんな人生のフィナーレを迎えたいか? 考えておいてもいいなぁと。 わかりやすいところでいうと エンディングノートみたいなものを書き残すのがいいのかもしれませんし なにか他に形にして残せるものがあるかもしれません。 いろいろ調べてみようと思っています。 なんだか、夏休みの宿題みたいだな。

【居場所】とは、人との関係性の中にあるのだ

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ハンセン病についてのミニ講演会に参加し 映画『あん』を見ました。 ニュースやドキュメンタリー番組を通して 「ハンセン病」「らい」という名前は耳にしたことがあったけど 歴史的背景やハンセン病患者が置かれている現状について 知識がなかった。 東京都主催の無料イベントに当選した、という理由で出かけていったわけだが 気になっていた映画見に行く、くらいの軽い気持ちでいた。 映画の前に、国立ハンセン病資料館の学芸員の方が 30分の講演をしてくださった。 その話の中で、はじめて知ったことがたくさんあった。 ・国策として、ハンセン病患者が隔離されたが、そこは社会復帰が目的ではなく、閉じ込めることが外界との関係を遮断することが目的だった。 ・療養所とは名ばかり。逃げれば監禁された。 ・入所した時に持っていたものは全て没収。お金は療養所内だけで使える「園内通用券」に換えさせられた。 ・現在では有効な治療薬が開発され、早期発見、早期治療をほどこせば完治する。 ・国が対策の誤りを認める判決がでるなど、近年ハンセン病回復者をめぐる状況は変わっているが、偏見は無くなっていない。 ・すでに完治している人も、高齢化していることもあり生活と医療は療養所しかなく、回復者・家族・社会の結びつきの再生が大きな課題。 治療薬がなかった時代は、容姿が変形してしまったり、治っても重い後遺症が残ることから、当日は今以上に偏見が強かった。 関わりを絶たれることで、「知らなさ」に拍車がかかり そのことがさらなる 偏見をうみ、共生を阻むのだということがわかった。 ハンセン病とは その歴史的背景とは 現状とこれからの課題 などを丁寧に解説していただいた。 講演を聞いて感じたことは 心にずしりと留まった。 その後に見た、河瀬直美 監督の映画「あん」は 生きずらさを抱える登場人物たちが ささやかな交流を通して 命とは、人生とは、と自らに問う内容。 静かな時の流れの中で 生きる意味を模索するその姿を通して 私自身の”今”を考えずにはいられなかった。 (あの人に、まだ伝えていない言葉があるな。会いたいな。) (本当の気持ちを誤魔化して、逃げていたな。恥ずかしい。) (優しさってなんだろう。) 脳裏にいろんな言葉がよぎった。 いま、こうしてブログを書きながら振り返ると 『 【居場所】って、物理的な場所、という意味ではなく 人と人と

こうでなくっちゃ、演劇作家。変態性、存分に発揮されて。

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くしゃみ、ぶっかけられても、なお。 というエッセイの中に 「くしゃみは臭い。でもぶっかけられてもなお、苦じゃない、むしろ浴びに行きたくなるくらいの、そんなおんなのこがいる。むしろ、臭くなきゃいけない。ぶっかけてほしい」という意味のことがひたすらに連呼され、それが落ちに繋がる、という、一編がある。 現場を想像すると気分が悪くなるのになんだかラストでしんみりもしてしまう。 『おんなのこ は もりのなか』 女子への尽きない興味を、執拗に書いているエッセイ集。 振り回されたいらしい。 振り回されることが気持ちいいらしい、豊かな気持ちになるらしい。 帯を書いた、又吉直樹さんはこう言う。 『透き通った変態性と切なさが最高でした』と。 作者の藤田貴大(ふじたたかひろ)さんは演劇作家だ。 1985年生まれ。2007年に”マームとジプシー”を旗揚げし、2011年に第56回岸田國士戯曲賞している。 いまかなり注目されている若手の演劇作家さんとのこと。 海外公演をしたり、国内でも精力的に活動している様子。 まだ作品を見たことがないが、 きっと見ている方が困惑するような女優の使い方をしているだろう、と想像する。 女子にあんなことやこんなことをさせたい、言わせたい。 そういう要求を突きつける僕を軽蔑して欲しい。 受け入れて欲しくない。突き放して欲しい。 そう考え、女優たちに白い目で見つめられる作者が、 王道の感動ものがたりを描くとは考えにくい。 本作は、 句読点が多かったり、変なところで文章が区切ってあったりして、けっして読みやすいとは言えないが、それがむしろ思考の流れそのままに見えてリアル。 頭の中ってそうなっているよね、と。 ひとつ気になるとそこばっかりしか気持ちいかなくなるよね、と。 彼に「なんか書きませんか、女子のことなんてどうでしょう」と持ちかけたananって。 ある意味、さすがって感じ。 ananの読者はどう思っただろう。 引いたのではあるまいか。 不快感を持ったのではないか。 あ、でもいいのか。 藤田さんからしたら 「やったぁ♡」 だろうから。