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10月, 2016の投稿を表示しています

柔道と仕事、心がけていることは同じ。

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日々の稽古で心がけているのは 【どんな状況でも、イメージした通りに身体が動かせるかどうか】 技を知ってるだけではダメ。 美しく正しく、そして何度繰り返しても同じように出来るか。 体の隅々まで、意識が行き渡っているか。 稽古の段階で出来ていないと 乱取り(試合)になった時、技が出ないから。 これは柔道だけに限ったことではない。 仕事でも同じことが言える。 いつでも、どんな時でも同じクオリティで出来るか。 隅々まで配慮できているか。 日々、技術や知識に磨きをかけているか。 普段から出来ていないと いざという時に力を発揮できない。 道場の片隅で パソコンを叩きながら、 昨夜の稽古の名残りを 身体中の筋肉痛から感じつつ 次の稽古が待ち遠しくてうずうずする。 ポーカーフェイスを装いながら 「私ならここで奥襟持つんだけどな〜」 「あ、あのタイミングで足技!上手いなぁ」 とか、研究してる。 それを稽古で試したい。 日頃から備えてるから 実践を楽しめる。 柔道も仕事も、同じ。

弟子にしない!ときっぱり断られて気づいたこと

私が心酔するセラピストの先生に「師匠!!弟子にしてくださいっ」と言ったら 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 『◯◯先生のところで学びました』なんて看板掲げなくても、ひとつのツールとして理論や技術を身につけてどんどん使ったらいいんだよ。 自分で使いこなせること、それを使ってちゃんと自分の人生を歩むこと。 そのために伝えてるんだから。 枠の中に 留まって小さくまとまらずに、自分全開でのびのびやりなされ。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 という主旨のことを言われた。 その時、私は 『◯◯先生のところで学んでいた私はすごい』『あの先生のところにいた人なら間違いない』というお墨付きが欲しかったんだなと気づいた。 冗談みたいに「弟子にしてくださいよぉ」と言った私に対して穏やかに真摯に答えてくれた先生の姿をみて 「先の見えない不安を”先生の弟子”という保証をもらって、安心感を得たかったんだな」と思って、恥ずかしくなった。 同時に「この先生の元で経験を積むことができて良かったな」と嬉しくなった。 人生は予測のできないことばかり起きる。 その中、何を選び取るかは自分次第。 世の中にはいろんな認定資格があり、いろんな先生がいて、いろんな理論がある。 何を学んでもいいし、誰のところに行ってもいい。 でも結局、自分の人生の責任は自分が取るしかない。 弟子にしない! とはっきり言い切ってくださった先生。 信頼関係があるからこそ、と受け取りました。 私の底力を信じてくれているんだなぁと。 これからの私の生き様を、楽しく見守ってもらいと思いました。

”才能”があるかないかに囚われず、目標を達成する方法とは?

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チャンスが到来した時、ずっと夢にみていたことに挑戦できる機会に恵まれた時、そこまで持ちつづけていた想いが強ければ強いほど「失敗できない」「爪痕残したい」「次に繋げたい」「認められたい」そんな気持ちがむくむくと湧いてくる。 こういう時こそ深呼吸。 自分を大きく見せたり、実力以上のことをしようとしたりして、力んでしまう自分。 それを落ち着けるために【自分のやるべきこと】をシンプルに見直すといい。 いま何が求められているか。 それに対して自分ができることはなにか? いつまでにやらばければいけないのか? 曖昧にせず、「日にち」「分量」「時間」などの具体的な数字に落とし込んで紙に書き出す。俯瞰でみる。 「イメージ」「想い」「やる気」みたいなふんわりしたものは外からの刺激に左右されやすいから。 もちろん、その時々で自分がなにを感じているか、感情にフォーカスすることは大事。 感情は行動の原動力になるし、感情をないがしろにすると思わぬところで自分で自分にブレーキをかけることになってしまう。 曖昧なまま走り出すと、気持ちが盛り上がっている時はいいが、ちょっとした失敗や思い通りにならなくなったらすぐ心が弱くなってしまう。 人の言葉が気になる。 視野が狭くなる。 外側の反応に左右される。 ついには「才能がないんじゃないか?」という、大げさな思考にはいってしまう。 才能とはなにか? それは「情熱や想いを熱く持ちながらも、冷静にこつこつとやるべきことを積み上げられる力」のことだと思う。 「すぐやめない、継続する力」とも言えるだろう。 気弱になって、才能があるとかないとか持ち出すようになったら、一息いれよう。 英気を養って、そこからまた続ければいい。 辞めずに続けていれば、目標は必ず達成できる。 ということで。 カフェで一息いれてるところ。

【峠】 真壁仁 著 POET

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峠は決定をしいるところだ。 峠には決別のためのあかるい憂愁がながれている。 峠路をのぼりつめたものは のしかかってくる天碧に身をさらし やがてそれを背にする。 風景はそこで綴じあっているが ひとつをうしなうことなしに 別個の風景にはいってゆけない。 大きな喪失にたえてのみ あたらしい世界がひらける。 峠にたつとき すぎ来しみちはなつかしく ひらけくるみちはたのしい。 みちはこたえない。 みちはかぎりなくさそうばかりだ。 峠のうえの空はあこがれのようにあまい。 たとえ行手がきまっていても ひとはそこで ひとつの世界にわかれねばならぬ。 そのおもいをうずめるため たびびとはゆっくり小便をしたり 摘みくさをしたり たばこをくゆらしたりして 見る限りの風景を眼におさめる。 【峠】 真壁仁  著 *:..。o○☆゜・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゜ 私もいま 人生の峠に立っています。 眼下に広がる景色は、幼い頃に想像していたのと違いますが だいぶ面白そうです。

【あいたくて】工藤直子 著 POET

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だれかに  あいたくて なにかに  あいたくて 生まれてきた_____ そんな気がするのだけれど それが   だれなのか   なになのか あえるのは  いつなのか_____ おつかいの  とちゅうで 迷ってしまった子どもみたい とほうに  くれている それでも  手のなかに みえないことづけを にぎりしめているような気がするから それを手わたさなくちゃ だから あいたくて 【あいたくて】工藤直子 著 *:..。o○☆゜・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゜ 空を見上げると思い出す詩。 私はどんな”ことづけ”を握りしめているだろうね

【羊と鋼の森】宮下奈都 著 を読んで

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素晴らしい作品に出会うと、比喩ではなく心が震える。 その証か、私は電車の中では涙をこぼしてしまった。 通勤中、本に没頭してしまい、 つい下車するのを忘れた。ある一文に心を持っていかれてそこから考え事をはじめてしまって、現実から離れてしまったのだ。 電車の中では泣いてしまうなんて、いま振り返ると恥ずかしいけれど、その時は他人にどう思われているかなんて考える余地もないほど、感動していた。 その一文には、主人公が自分の在り方に迷っている時に先輩から聞いた話し、が書かれている。 それが後に主人公を導く灯火になっていくのだが、 私もその主人公同様、その一文と出会えたことにとても深い意味を感じた。 いま、この文章に出会えたことが偶然とは思えなかった。 その文を、私はノートに記した。 いつでも見返すことができるように。自分自身の脳裏にも刻めるように。 本屋大賞を受賞したこの本を、これから手にする方もいらっしゃると思うので、私の心を震わせたその一文をここで紹介することは避けるが、私が作品を描く時も私が体験したような心の震えを感じてもらえたらいいなぁと思った。 物語を書く者としてどうあるべきか、その姿勢を学んだ気がする。 静かで詩的で、情熱に溢れた、素晴らしい作品でした。

仲のいい相手に対して、ふいに緊張してしまうことありませんか?

よく知っている人なのに、極度に緊張することがあります。 そんな時、自分の中で何が起こっているか見つめてみると ◆思っていることを伝えるのには勇気がいるなぁ ◆もしわかってもらえなかったら、ここで関係は終わってしまうかも ◆悩みを相談したら相手に迷惑がかかるかもしれないからふたをしておこう と考えている自分がいました。 その気持ちを 支配しているのは 【恐怖】なんですね 自分をわかってもらえないかもしれない【恐怖】 うとましがられてしまうかもしれない【恐怖】 拒絶されてしまうかもしれないという【恐怖】 でも怖がっていては何もかわらない。 傲慢な自分も 弱い自分も いいかげんな自分も すべて自分なんだと さらけ出していかなくては 本当の人間関係は作れない。 傷ついたり、嫌われたりするかもしれないという【恐怖】は さっさと乗り越える方がいいようです。 自分の気持ちや価値観が 相手に受け入れられないこともあります でもだからといって 自分という人間が すべて否定された訳ではない。 ◆相手の受け取る量と渡した量が合わなかったんだ ◆タイミングがわるかったんだ ◆言い方や方法が間違っていたんだ というように 「これは失敗ではない」 とらえるようにし 変えたほうがいいと思ったことは「相手を変えるのではなく自分が変えてみる」 ことにしました。 相手のことを変えるのではなく 自分の心の在り方をかえてみよう そうすると 必ず変化の兆しが見えてきます。 あくまでもニュートラルな状態を心がけて相手と向き合うことで いままで知らなかったいい面を発見できるかもしれません。

友人の視点が私をリセットしてくれる

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旧知の友人たちと飲みに行った。 「まだなにかに遠慮しているように見えるよ。もっと自分を全開にしなよ。枠に収まらずに、自由にのびのびやったらいいよ。その方がらしさが出るし、見ていてワクワクするよ。思いっきりやってさ、失敗して玉砕しても、そっかそっかと言いながら温かく迎え入れてあげるよ」 とのこと。 友よ! ありがとう。 こうも言っていた。 「人を喜ばせようと思ってやるんじゃないよ。あなたが全身で喜んで楽しんでいることに巻き込むんだよ。人のために、ってやるとズレるよ」 そうなのだ。 私はサービス精神過剰な時がある。 目の前の人を喜ばせよう、この人の役に立とう、もっと楽しませたい、という気持ちが増幅しすぎて、余計なことをしてしまうのだ。 もっと自分に集中して、思い切り楽しんで、溢れる喜びに身を震わせる。 その姿が、見ている人の、関わってくれる人の”感情のボタン”を押せたらいいなと思う。 ” 八重洲   豊丸” 私はこういうごちゃごちゃした大衆居酒屋みたいなところの方が落ち着く。 もちろん料理と酒は美味しいに越したことはないが、小洒落た店だと座りが悪い。 周りが騒がしい方が、話に集中できる。 気ごころ知れた友人との語らいは自分がちょっと迷ったり自信を失った時、元の場所に戻してくれる。 本当にありがたい。

なにをやっても、どうやってもしっくりこない時って、何がおきてる??

どうやってもしっくりこない時って【気負っている】んじゃなかろうか? ◆やるって言った以上、ちゃんとしなきゃ。 ◆いまさらやめるわけにはいかない。 ◆せっかくはじめたんだから最後までやり抜こう。 「ちゃんと」とか「いまさら」とか「せっかく」とか言う言葉は、曖昧な割に自分を縛る力が強い。 でも本当にそうだろうか?と疑ってみてもいいだろう。 ちゃんとしなかったら何が起こる? やめたからなんなんだ? 途中でやめちゃだめって誰かに言われた? 自分で決めたことに 自分で縛られて窮屈になってる=気負う、ということじゃないかな? ふと、そう思った。 続けることが自信になったり、信用に繋がったりはするけどね。 気負って力んじゃうと、本来持ってる力さえ出なくなるからね。

意見がぶつかり答えが見つからない時、どうする??

あなたは 自分の想いを人に伝えるのが得意ですか?それとも苦手ですか? 私はブライダルMCの仕事もしていますが、 ウェディングの準備を進める中で ◆ケンカが増えた ◆考え方についていけなくて、がっかりした ◆あんなことを言われるとは思っていなかった という声を聞くことがあります。 これから一緒に幸せになっていこうとしているパートナーとの間に溝を感じる、 これは辛いですよね。 お金に対する考え方とか、 時間の使い方とか、 他人に対する配慮の仕方とか、 そこには はっきりした価値観がでてしまうから 『え、それはないんじゃない?この人とはやっていけないかも』 というネガティブな方向へ 気持ちが固まってしまうのかもしれません。 「意見がぶつかってしまった」「 ふたりの間で答えが見つからない」 そんな時どうするか!? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ まずは相手の話をきく時の【聞き方】を変えてみる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ということをお勧めしています。 心がけるのは 【反論する理由を探しながら聞く、 という聞き方をしない】 ということです。 どんな考え方や価値観でも 【相手が何を考えてそう言うのか、どんな気持ちを伝えたくてその言葉を使うのか】を《知ろう》と いう気持ちで聞くのと 【間違いを正そう・ 自分のペースに持っていこう ・イエスと言わせよう ・謝らせよう】 と考えながら聞くのでは 同じ【聞いている】 という姿勢でも 相手は違和感を感じ、心を閉じてしまいます。 《戦う姿勢から、相手を知ろうとする興味へ。》 たったこれだけの転換で相手の気持ちも受け取れるし、伝えるのも楽になります。 そのことを私はお客様とのやりとりの中で気づかせていただきました。 私も日々、練習練習、です。

理想の働き方にこだわることで、人生が有意義になる。

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時間は有限だ。 働かされると思うのか、自分の選んだ働き方をしていると 胸をはって言えるか。 いつでも自分に問いかけていたい。 かつて。 私は巨大な老舗ホテルの裏方仕事をしていた。 レストランのバックヤードで高価な銀器やグラスを磨いたり、朝食用のパンを焼いたりコーヒーを落としたり。 それ以外に、朝、昼、晩、と複数のアルバイトを掛け持ちしていてから、いつだって眠くて眠くて仕方ない。うとうとしながら歩いてガードレールにぶつかって目を覚ます、なんてことが日常茶飯事だったあの頃。私はいつか表舞台で活躍する自分を夢見て、ひたすら働いていた。お金を貯めてやりたことをやるぞ、という決意から仕事をしまくっていたのだが、いつしかお金を稼ぐことそのものが目的になってしまい、ただただスケジュール帳をバイトのシフトで埋め尽くした。そのうち「どこでどんな風に活躍したいんだったっけか?」と訳が分からなくなるほど忙しくなってしまい、ある日、トースト用の食パンが入ったケースを持ち上げた姿勢から、一歩も動けなくなってしまった。 疲労による股関節麻痺だった。「あと少し治療が遅かったら歩けなくなっていましたよ」と医者に宣告されたことをきっかけに自分の働き方を見直し退職した。 忙しさを理由に人間関係を軽んじていたのも事実だ。いくつもの予定を綱渡りするようにこなし、大事な人とのコミュニケーションにかける時間をはしょり、対話や議論を避け、親交を温める時間を省いた結果、たくさんの友人を失った。 それからというもの私は自分の”理想の働き方”を真剣に考えるようになった。 私がいま仕事をする上で気をつけているのはこの事柄だ。 1)いつ、どれくらいの量の仕事をするか、自分でコントロールできる環境を整える。 2)一日に仕事を詰め込み過ぎない。締め切りの設定に余裕を持つ。 3)創作にかける時間を確保する。自分がいちばんやりたいことだから。 4)大事な人と会う約束は一日にひとつだけにする。 5)うわべだけの付き合い、気がのらない集まりにはいかない。 これをしっかり意識するだけでも、かなり余裕ができた。 最初は仕事を制限すると収入が減るような気がして不安だったが、時間と心に余裕ができたことでむしろ収入は増えた。

著作権についてのひとつの考え方 〜【祝婚歌】吉野弘氏の言葉に共感します〜

披露宴の司会をしていると、さまざまなスピーチを耳にします。 「結婚生活において大切な三つの袋」とか「夫婦生活に訪れる三つの坂」とか いろいろあるけど 私は【祝婚歌】という詩が好き。 まずはご紹介させてください! 『  祝 婚 歌  』 (しゅくこんか) 吉野 弘 二人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい 立派過ぎないほうがいい 立派過ぎることは 長持ちしないことだと 気づいているほうがいい 完璧をめざさないほうがいい 完璧なんて不自然なことだと うそぶいているほうがいい 二人のうち どちらかが ふざけているほうがいい ずっこけているほうがいい 互いに非難することがあっても 非難できる資格が自分にあったかどうか あとで疑わしくなるほうがいい 正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気づいているほうがいい 立派でありたいとか 正しくありたいとかいう 無理な緊張には色目を使わず ゆったりゆたかに 光を浴びているほうがいい 健康で風に吹かれながら 生きていることのなつかしさに ふと胸が熱くなる そんな日があってもいい そしてなぜ 胸が熱くなるのか 黙っていてもふたりには わかるのであってほしい ・・・・・・・・・(/_;)ううっ。ええなぁ。 夫婦の理想の在り方が、のびのびと語られていて、その内容も語り口のやさしさも大好きな詩です。 この詩に出会ったことで詩人 吉野弘さんのことを調べていて、 この詩の「著作権」についての 考え方が、さらに素晴らしかったので、こちらをぜひご紹介させてください。 この「祝婚歌」って「民謡みたいなもの」だと思うんですよ。 民謡というのは、作詞者とか、作曲者がわからなくとも、歌が面白ければ歌ってくれるわけです。だから、私の作者の名前がなくとも、作品を喜んでくれるという意味で、私は知らない間に民謡を一つ書いちゃったなと、そういう感覚なんです。 民謡というのは、著作権料がいりませんよ。 作者が不明ですからね。 もし「掲載したいんですが著作権料とかをどうしたら・・・・」と聞かれるとしま

強さとはなにか??

柔道場という特殊な環境で仕事をしていると、普段の生活の中では出会わないような人々に出会うことがある。 元オリンピックメダリスト 格闘家 武道の家元 などなど。 スポーツや武道の世界でとことんまで自分を追い込み、泥臭い努力を重ね、時に手酷い目にあい、体を痛めつけ、心が折れ、それをまた気合いや工夫で元に戻し、いやもっと強固にし、常に自分を高めることを考えて日々を重ねる。 自分としっかり向き合い、弱さを認め、さらに高みを目指し、進むことをやめない。 そういう【本当に強い人】は気遣いができ、人の痛みにも敏感で、優しい人ばかりだ。 きっと、そのまんまの自分に自信を持っているからだろう。 努力を積み重ねてきた自分、挫けても何度も復活した自分、を信じているからだろう。 自分を大きく見せたり、去勢を張ったりする必要がないからだろう。 真の強さが人への優しさとなってあらわれるのだと思う。 演劇、文学、音楽、芸術といった文化系の環境でしか通ってこなかったので、心身ともに鍛え上げた人たちのすごさを今目の当たりにしている。 強さとはなにか、をリアルに感じられるのが、とても興味ふかい。

2016年9月30日(金)〜うまみ〜ライブを終えて

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この度、シンガーCifaとMUSIC&POETというコラボライブを開催しました。 藤山周さんのギターでCifaの歌を聴いていただく、というシンプルな構成の中に、詩の朗読が絡む本ライブ。 Cifaオリジナルソングやカバー曲の間に、6編のオリジナル詩を朗読しました。 。 。 。 。 Cifaの歌の間は私の瞑想時間(笑) 照明にうっすら照らされた私の顔を見て、近くにいた友人が「目を閉じていてもドヤ顔だった」と後から言ってました(^^;; 朗読タイムに入ると、おもむろにマイクを握ります。 詩は、 歌詞や今回のライブのコンセプトにリンクするように書き下ろしました。 「目で読む詩」ではなく「声に出して伝える詩」ということを土台に据えて、綴りました。 詩は目で見るのと音として聞くのとでは伝わり方が違う、と思っています。 「目で読む詩」はそれがひらがなで書かれているか、漢字で書かれているか、カタカナで書かれているか、行間がどれほどあいているか、どのような字体か、紙質はどうか、文字と空白部分の割合はどうか、挿絵はあるか、などで印象が変わります。 「声に出して伝える詩」は、目で見る時に受け取る様々な手がかりを【声ひとつ】で表さなければなりません。 声のみで表現する”朗読”というジャンルはとても奥が深く、 声のトーン、読み上げる速度、間の取り方などを工夫しながら詩(物語)の世界を表現していきます。 朗読も歌も「パフォーマーとお客様の間に”別の世界”を作り上げ共有する」という点では同じですが、朗読は「言葉を語ることで色やリズムを出す」というシンプルな表現方法なので、心の揺れや集中しているか否かがすぐに声に出てしまいます。 最初の作品を読み上げた時の第一声はちょっと緊張していたのが自分でもわかりました。 なので【詩の中に描いた情景をお客様に届けるつもりで気持ちを集中!】と気持ちを切り替えたら、緊張が溶けました。 お客様の心持ちというか、聴いてくださる皆さまから醸し出される場の空気感が読み手である私に伝わってきて、それを受けて私の表現に変化が生じ、その変化がまたお客様にかえされる、という相互作用

祈ることは消えること(POET)

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声を封印し 静かに深く意識をひらく 異界の入り口の前に跪く時     ワタシ   は    そこにいない 時間も距離も温度も情も超えて すぐに繋がる あの人あの場所 ワタシ は  消える    あるのは願いと 呼応する名もなき命